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2010年6月

2010年6月29日 (火)

仏婦団体参拝

本日の午前11時、岐阜教区岐厚組の仏婦の方々26名が、親鸞聖人のご生涯を紙粘土製の人形で再現した「ご絵伝」を見に参拝されました。

皆さんの到着時には、降っていた雨も上がり、住職は不在でしたが、人形師作の住職の人形と一緒にお迎えしました。

お勤めの後、15分ほど人形の説明をさせていただき、2班に分かれて力作の人形を見ていただきました。

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皆さん、先ず、10センチほどの小さな人形の精巧さ、愛らしさ、親しみのある表情に驚かれ、「ウオォーッ」と、感嘆の声が上がります。

私が言うのは何ですが、親鸞さまがより身近に感じられ、本当にご苦労されて、お念仏を伝えて下さったのかが拝察でき、うっすら涙さえ出てきます。

きっと皆さんも、そう思われたに違いないです。そんな表情をされていましたもの。(最近、とみに思い込みが激しくなるようです)

やはり、ご苦労話など聞きながら、現物を見ると違いますねえ

と、記念写真を撮って、竹人形の里へと向かわれました。

また、ご縁があったら、どうぞお越しくださいませ。お待ちしております。

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2010年6月28日 (月)

小学校の親子行事

昨日の日曜日、朝8時半より11時まで、西宮寺の本堂にて市内N小学校の5年生の「親子行事」が行われました。

各学年ごとに、親子でいろいろなことをするのが、このN小学校の特色で、長男の時もありましたから、かれこれ20年以上も続いていることになります。

この「親子行事」では、ハイキングをしたり、陶芸、座禅、夜の肝試しと、その年の役員の方が頭をひねってプランを考え、段取りをするというもので、結構大変だった記憶があります。

当時、私の心の隅に、「他宗のお寺に行って座禅をするのなら、真宗のお寺にも来てもらい、命の話を聞いてもらうというのも、あっていいじゃないの?」などと思ってはいました。

ですが、なかなか「自分のお寺へ来て!」とは言いにくく、子供たちも巣立ってしまい、そんな機会も遠のいておりました。

そして、今回、知り合いの方のお声がかりで
  お寺の本堂で命の大切さを聞かせてもらい、その後
  親子で抹茶を立てていただこうという計画をしたのですが
  引き受けてもらえないだろうか?
とのお尋ねがありました。

トントン拍子に企画が決まり、今日の日を迎えました。

  ・若い世代がどう受け取って下さるか?
  ・親子に通じるお話は?

などと、住職も相当プレッシャーのようでした。

なーんと、今回の「親子行事」には、N小学校の1クラスのほぼ全員が、親子で63名もの方が参加されました。

参加者のその真剣なまなざしは、拙い文章よりも、どうぞ画像でご覧ください。

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住職は、最近よく読まれている内田美智子さんの「いのちをいただく」から引用してお話をしてくれました。

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  私が生きるためには、さまざまな生き物が、命をなげうって
  私を生かしめてくれているということに気付いてほしい。

  それが分かると、自ずと「いただきます」、「ごちそうさま」
  という言葉がでてくるはずです。

ビックリするくらい、親子共々、それは熱心に聞いておられます。

場所が変われば、姿勢も変わるのでしょう。そして、命のつながりの「不思議さ」、「尊さ」を、この私も共に学びました。

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住職の法話後、せっかく親子で参加されているので、スキンシップを兼ねて親子二人でする手遊び、餅つき、数字ゲーム、クイズなどをして楽しんでもらいました。

後はお茶の先生とバトンタッチです。

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せっかくなので、毛氈(もうせん)を敷き、BGMに雅楽を流し、お抹茶の雰囲気を演出してみました。

後は、皆さんのお手前しだいです。

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先ずは、子供たちが抹茶を立てて、大人に飲んでもらい、今度は交代して、大人が抹茶を立てて、子供に飲んでもらう流れでした。

いやあ~30組ですから、お茶の先生も大変、立てる作法の指導者も、飲む作法の指導者も一人で、てんやわんやでした。

しかし、それなりに楽しんで、親子の会話の弾むこと、弾むこと、見ていて微笑ましい限りでした。

お茶の作法は、二の次だったようで、親子でこんな時間を持てることの方が、意義のあることだったと思いました。

おひとり、おひとりに感想を聞いたわけではありませんが、皆さん、いい顔をして帰られました。

私だけが勝手に思っているだけかも・・・いつか感想を聞いてみようっと。

またこんな企画ができればいいなあ heart01

2010年6月27日 (日)

すこやかフェスタ

昨日の午前9時30分から午後2時30分まで、勝山市社会福祉協議会主催による「福祉すこやかフェスタ」が開かれ、いろいろな催しがありました。

  ・展示コーナー
  ・相談コーナー
  ・体験コーナー

通路いっぱいに、所狭しと、いろいろなコーナーが設けられています。

また、体験コーナーでは、陶芸、バルーンアート、手織り、足つぼマッサージ、ネイルアートなどがありました。

その体験コーナーの中でも、特に人気だったのは、そば、冷やしうどん、焼き鳥、かき氷、餅、フランクフルトなどの模擬店です。

雨にもかかわらず、大勢の人で賑わっていて、「お聴聞にもこれだけの人が来て下さればいいのに」と、うらやましいかぎりでした。

ホール企画では、式典の後、子供たちの自立を支援するフリースクール「はぐるまの家」を運営する坂岡嘉代子さんによる講演がありました。

講演の前には、坂岡嘉代子氏が今から31年前、障害者や非行少年のために結成された「和太鼓グループ はぐるま」による演奏がありました。

講演では、実子と分け隔てなく、さまざまな事情を抱えた子供たちを預かり、太鼓演奏を学ばせながら、更生のお手伝いをされる坂岡氏の情熱に感服いたしました。

坂岡氏は
  一番に、実の親に、自分の演奏を見てもらいたいはず
  それすらもかなわない子供たちにの前で
  今日は、会場の皆さんが、この子たちの親になったつもりで
  聞いてやってください、と挨拶した時
  子供たちはすばらしい演奏をしてくれた
そんなことも聞かせてくださいました。

親なれば、子供の晴れ舞台を、どうして見に行ってやらないのか。怒りすら覚えました。

いくら観客が多くても、たった一人の母に見てほしいに違いありません。

  10億の人に 10億の母ありなんも
    我が母にまさる 母ありなきや

  子捨てし親あり 親殺せし子あり
    されどこの親子見捨てし 如来ましまさず

そんな言葉が、私の胸に浮かんできます。

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ホール企画の二部では、小、中、一般による手話コーラスが披露されました。

各学校の福祉手話クラブの生徒たち総勢約100名が合同で、手話を入れながら歌われます。

私は、その時の歌のお手伝いをさせて頂きました。

今年の課題曲は、天才画家、山下清のテレビのテーマソング「野に咲く花のように」で、とてもいいのです。

一句、一句、噛み締め、確かめながら、手話をしてくれました。

ホールいっぱいに広がって、今年のテーマ「つないだ手、ぎゅっとにぎって、笑顔の輪」のとおり、笑顔が広がって行きました。

心の大切さを再確認させられる一日でした。

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2010年6月24日 (木)

グループホームのご縁

本日の午後、勝山市の郊外の田園が広がる住宅地の中にある「愛の家グループホーム勝山荒土」にご縁をいただき、歌とお話に行って来ました。

こちらの施設は、「認知症対応型共同生活介護事業所(認知症高齢者グループホーム)」の指定を受けた施設です。

家庭的な雰囲気を取り入れ、我が家にいるがごとく開放的で、入居者は得意なことや家事等の役割を持ち、協力して共同生活をする施設だそうです。

もちろん、こちらの施設にも「介護士の方」や「食事を作って下さる方」、「看護士の方」がおられます。

施設の特徴は、「少人数の入居で、すぐに目が届き、ご自宅での生活の延長として過ごしていただける施設」とのことです。

現在、こちら施設では20人弱の方が入居されていて、勝山市ではこのような「少人数のグループホーム」が数か所できています。

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本日は、14~5人の入居者の皆さんと共に「手遊び」や「法味替え歌」を通してお話を進めました。

演歌の替え歌になると、皆さん、生き生きと大きな声で歌って下さいます。(やっぱり歌は、いいですよね~)

お話では、「生きるということ、死ぬということ、仏に遇うということ」などについて、ちょうど自分の両親へ尋ねるように、私の味わいを聞いていただきました。

人生の大先輩を前に、「そんな当たり前のことを、今さら言われなくても分かっている」というような内容にも、皆さん「うん、うん」と頷いてくださいます。

そんな皆さんの聞き上手に助けられ、役割の一時間は、アッという間に過ぎてしまいました。

3時には、手づくりのフルーツヨーグルトを、皆さんと一緒に頂きました。

いよいよ「高齢者社会」が現実となり、手厚い福祉が進む反面、精神的なケアーが行き届かなくて、日々の生活に追われ、介護される方も、介護する方も、いろいろな悩みを抱えての毎日のようです。

介護士の方から質問や、悩み相談があり、「反対に私の方が皆さんにアドバイスしてもらいたいぐらいですよ。愚痴だらけですのに~」と正直に申しました。

(いい格好しても、すぐにバレてしまいますものね)

また、ご縁があれば寄せていただきます。  合掌

2010年6月23日 (水)

その名も「新生クラブ」

本日の午前中は、市内の郡(こおり)地区の「老人会の春のお座」に出講してきました。

お座は、郡の公民館を会場に、春と秋に勤まります。

こちらの公民館には、立派なお仏壇が安置され、お経本も揃っていて、皆さん、お正信偈の草譜、行譜の両方をそれは上手にお勤めになります。

また、年2回のお座では、「聞法した後は、昼食を食べながら親睦を深める」という「昔からの習慣」が続いているそうです。

そんなありがたい老人会の名前をお尋ねすると、なんと「新生クラブ」とのことです。

さながら「新しく生まれる」とは、これまた「お念仏の味わいをそのままに表している」とも思えるすばらしいネーミングです。

私の命は、「死んでお終いの命」ではなく「無量寿なる命=永遠の命=新しく仏に生まれる命」でありましたものね。

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本日の春のお座には、60人ほどのお参りがあり、そのうちの3割が男性の方でした。

どの地域でも、男性の方は少ないようですね。

皆さん、暖かい眼差しで、熱心に聞いて下さり、今日もまた助けていただきました。

郡地区の皆さん、本当にお世話になりました。また、お会いしましょうね。 合掌

2010年6月20日 (日)

6月度の常例法座

本日の午前と午後、6月度の常例法座が勤まりました。

朝のうちは、梅雨特有のムシムシ、ジメジメの気候、お昼前に集中豪雨、1時過ぎに雨は上がったものの、お寺へ足を運びにくい一日でした。

そんな天候にも関わらず、40数人の方がお参りしてくださいました。

午前の常例法座の布教は、お同行の皆さんおなじみの福井のS師です。

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S師は、「十悪五逆の私たち凡夫を救って下さる阿弥陀如来さまの本願」を分かりやすく説いてくださいました。

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午後の常例法座の布教は、住職です。

住職は、「歎異抄の第一条、弥陀の誓願不思議に」から「お救いの目当ての罪悪深重、煩悩熾盛の衆生とは、この私のことだ」ということを説いてくれました。

人ごと 人ごと としてしか見れないからこそ 凡夫という

このことは、よくよく理解しているつもりですが、自分のこととは、なかなか思えないこの私です。

  一、この度のこのご縁は 初事と思うべし
  一、この度のこのご縁は 我一人の為と思うべし
  一、この度のこのご縁は 今生最後と思うべし

いつも、この「聴聞の心得」を、参詣の皆さんと唱和するのですが、「我一人の為と思うべし」が「人ごと」になってしまう私です。

今月の常例法座も、お参りの皆さんに助けていただき、無事に終了することができました。  合掌

2010年6月19日 (土)

梅雨の晴れ間に

勝山市には3つの中学校があります。本日の午後2時より4時まで、その3校が集まり、連合音楽祭が開催されました。

この一週間前には、市内に9つある小学校の連合音楽祭も開催され、この時期、「すばらしい歌声」と「合奏」に出会えるのが、私の何よりの楽しみなのです。

連合音楽祭では、「それぞれの学校の特色を活かし、みんなで一つの音色を出そう」と団結する姿に感動します。

子供たちのそんな姿を目の当たりにすると、「いつから人は、このようなひたむきさ、純粋さを失ってしまうのか?」などと、いつも思ってしまいます。

そして、同時に「いつの頃から人は、打算、諦め、惰性を身につけていくのか?」とも。

きっと、大人たちは、「一瞬でも、ひたむきさ、純粋さ、それらを取り戻せたら」と思い、このような機会へ足を運ぶのでしょうね。

私は、「それは、失くしてしまったのではなく、片隅に追いやられているだけ」とも思うのです。

大人たちは、「感動的なものに触れたとき、遠い記憶や、郷愁の想いが呼び戻され、胸の奥で反響し、大きくなるのだろう」と思うのです。

そして、「きっと大人たちは、また熱く燃えることのできる何かを探し求めているのだろう」とも。

何かに夢中になれる人を、冷やかに見ながら、実のところは、羨ましく思っているのかもしれません。(一番、羨ましがっているこの私が言うのはなんですが・・)

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連合音楽祭では、3つの中学校の合同演奏があり、総勢114名が参加されました。その演奏の中で、一年生は「踊り」を担当します。

それは、とてもすてきな合同演奏となりました。

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お別れは、「さようなら」を会場の人も全員で歌いました。いいもんですね歌は。

ア~~ア! 楽しみにしていた小中学校の連合音楽祭も終わっちゃった。

サッ! 帰って明日の常例法座の準備をしようっと。

ヨシッ! 私も、今日出会った子供たちのように燃えるぞ! paper

2010年6月16日 (水)

ホタルの乱舞

今日は、北郷公民館の前にある「ホタルの里」で「ホタル鑑賞会」があり、子供さんのおられる「四つクロ」のメンバーをお誘いし、出かけてきました。

先ずは、特大紙芝居でホタルの生態などの説明があり、そして、数年にかけて環境を整えたホタルの里での鑑賞です。

ホタルの里は、さすがです。たくさんのホタルが飛び交っています。簡単に手で捕まえることができて子供たちは大喜びです。

子供たちは、捕まえては、また逃がし、捕まえては、また逃がしを繰り返していました。

いや~あまりの美しさに思わず絶句! 鏡を見たのではありませんよ!(これは冗談です)

ホタルの輝きにビックリです。その数の多さにもビックリです。ここ何年と観ているのですが、きっと「今年の今日が最高の一瞬だった」と思われます。

お誘いしたメンバーを「もっとすごいところがあるよ」と、穴場へご案内しました。

するとどうでしょう、メンバーはあまりの多さに唖然! 何回と見ている私が「すごい」と感嘆の声を挙げてしまいました。

最近は、人の手が加わり、やっとホタルが住みつくようになった所も増えましたが、ここはそんな場所ではなく、自然のままなのです。

この穴場は、すごいですよ。しかも「ゲンジボタル」です。

今日は数百匹? ウ~ン 少しオーバーかな? いや それぐらいに見えました。「ウソだ」と思われたら見にきてくださいな。

場所は、北郷町下森川の浄仙寺の裏の川なのです。・・そうです、実家寺の裏の川です。

毎年見ているのですが、こんなタイミングよく見れたのは初めてです。ここ2~3日がピークだと思いますので、見逃さないで下さいね。

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デジカメでホタルを撮影しようとしたのですが、まったく映りませんでした。仕方がないので、紙芝居を載せておきますね。

童心に還った一時でした。(いやあ~すごかった)flair

2010年6月14日 (月)

節談説教

昨日の午後2時より、鯖江S寺様の「仏婦特別講演」にお参りして来ました。

この「仏婦特別講演」に出講されたH師は、住職の同級生で、節談説教東方流の権威であるM師に師事し、今や各地で分かりやすい「節(ふし)を交えたお説教(節談説教)」をされる方です。

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昨年、S寺様より住職へ「節談説教の法座を勤めたいので、話芸の優れた説教師を紹介してほしい」との依頼を請けました。

早速、住職の同級生で法友のH師に相談したところ、H師、その師匠のM師、ギター法話をされるK師の3人の出講が決まったという次第です。

多忙な3師が日程を調整し、ようやく実現した「仏婦特別講演」です。「こんな機会を見逃す手はない」と思い、お聴聞に出かけました。

最初はH師の「大和の清九郎」、次にM師の「親鸞聖人御往生の段」、最後はK師の「ギター法話」でした。

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M師の「親鸞聖人のご往生の段」は、解説を交えながら「初めての方にも自然に聞こえるように」との配慮が感じられます。

おかげで御伝抄の場面が目の前に現れるようでした。

84歳のご高齢を微塵にも感じさせない「迫力」と「流暢」さ、ところどころ茶目っ気たっぷりに話され、さらに都はるみさんの「夫婦坂」の替え歌も、渋いお声で歌って下さいました。

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K師は、一曲目はギター弾き語りで、自作の「念仏かぞえうた」を披露され、その中に秘められている「お慈悲のこころ」をやさしい口調でお聞かせくださいました。

次に、500年の歴史を持つ自坊建て替えの時の思いを綴られた「時の重みと尊さを胸に」という曲を歌ってくださいました。

最後は、「琵琶湖周航の歌」のメロディで、「お経の意味は」という曲を歌ってくださいました。

3曲とも曲風が違い、「ギターの音色」と「ハーモニカ」も加わり、現代風なのに、なぜか本堂にしっくり合い、不思議な感じもしました。

この「不思議な感覚」は、なぜなんでしょうね?

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とにも、かくにも、3師3様の節談説教を満喫できて有難いことでした。心に如来さまのお慈悲を味わいつつ、帰路に着きました。

2010年6月 9日 (水)

連続研修会

本日の夜は、組(そ)の連続研修会でした。

ご講師は、別院のS師、研修の内容は「迷信と俗信」です。

迷いのもと・・・日の良し悪しに従えば、悪いことがおこらないのでしょうか?

テーマ説明の後、2班に分かれて日頃体験している俗信、迷信の事例を列挙します。

日の良し悪し、仏滅、友引、墓相、家相、手相、占い等々。

ウーン出るは、出るは、「アレをしたから、支障を来す」というたぐいの言い伝えなど、「そんなの聞いたことないな」というのものまで、たくさん出てきました。

それは、「根拠のないもの」から「これは言えるかも」というものまで。

ですが、どちらにしろ、言いわけ、責任転嫁に利用したり、自分の都合のいいようにとらえていることが多いように思われます。

それほど人は弱く、悪いことや、辛いことから逃れよう、逃れようとしたがるものなのですね。

いくらあがいても、願っても、逃れ難きは「苦」である。その「苦」を転じて「徳」とならしめる教えが「お念仏」でしたよね。