おごりの気付き
今朝は、本町にある4区の子供たちが一堂に会し、「ラジオ体操とお勤めの会」に参加してくれました。
子供たちだけで約40人、そして、大人たちも約40人の参加です。
いつもの「拙寺のある中後区だけ」での「ラジオ体操とお勤めの会」と違って、本日は賑やかな境内となりました。
残念なことに、ラジオ体操が終わり「これから本堂でお勤め」となると、半数の大人の方は帰ってしまわれます。
それでも、「 (牛)に牽かれて」ではありませんが、子供に牽かれて本堂へ入ってこられる方もあります。
何はともあれ、親と子が、祖父母と孫が、こうして本堂でお参りできることの幸せは、つくづく「当たり前ではない貴いこと」と思います。
ましてや「幼子に牽かれて仏法聴聞」など、「とてつもなく希有なことだ」と、改めて知らされた思いがします。
当に「ありがとう」としか表しようがありません。
この「ありがとう」という言葉の語源は「有る事難し(あることがたし)」で、そもそもは「当然ではない」、「当たり前ではない」という「感謝の意味」なんですよ。
30年ほど前にベストセラーとなった「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という若き医師、井村和清氏が、死の直前まで綴った「愛の手記(遺稿)」があります。
本ばかりでなく、映画化や、テレビドラマ化もされたので、ご存じの方も多いと思います。
本の表題の「飛鳥」とは「長女」の名前です。そして「まだ見ぬ子」とは「亡くなった当時に妻が妊娠していた子(次女)」のことです。
実は、この本の原題は「ありがとう、みなさん」というタイトルだったんですよ。
住職は、お勤めに参加された皆さんへ、この本の締めくくりの詩、「あたりまえ」から引用してご法話をしてくれました。
重い病気の代償として、井村医師は今まで「健康があたりまえ」と思っていたことが「あたりまえでなかったこと」に気がつかれたのです。
これまで「当然のこと」と思っていたことが、実はそうではなく「本当に有り難い希有なことだった」と、気がつかれたのですね。
誰にでも起こる当たり前のこと。それが「生、老、病、死」であり「四苦八苦」でありましたね。
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