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2010年7月25日 (日)

暁の人生講座の最終日

本日は、福井東別院にて5日間開催された「暁の人生講座」の最終日です。

真宗大谷派 福井教区第1組 教化委員会の主催によるこの「暁の人生講座」は、今回で42回目になるそうです。

ちょうど今日は、日曜日でラジオ体操がお休みです。しかも、ご講師は「いつかはご縁に遇いたい」と熱望していた「池田勇諦師」です。

ですから、今日も早朝より住職と二人で出かけてきました。

私が嫁いで来た頃、すでに池田先生のお名前はこの勝山にも広く知れ渡っていて、勝山のあちこちで「池田先生の追っかけ」のようにされて、ご法座に足を運び、お聴聞される方が何人もおられました。

未だに、勝山から池田先生のご自坊(三重県桑名市)までお聴聞に出かけられる方があるぐらいです。

県内の寺院の掲示板や、私どもへ届けられる法座案内などに「布教、池田勇諦師」と先生のお名前を拝見するのですが、これまた先の「川村妙慶師」と同様に、ライブでお聴聞したことがありませんでした。

嫁いで早30年。新妻だったその当時から「追っかけのお同行が付くほどの布教をされる池田先生とは、一体どのようなお方なのか?」と、モ~~興味津々です。

移動中の車中でも、本堂で講演を待つ間も、「先生のお歳は?」とか「きっと先生は、よほどの男前なのでは?」などと、無用な雑念ばかりが私の頭の中を駆け巡ります。

そして、ようやく今日、実際に先生のご法話をお聴聞して「年齢は77歳、中肉中背、まずまずのお顔立ち」と判明しました。

先生は、「きっとお若い時は、ハンサムだったんだな~」と思わせるような風貌で安心(?)しました。(年齢を重ねれば、そんなに変わらなくなるものです)

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横顔で分かりづらくて申し訳ありません

さて、やっと本題です。先生のご講題は「真宗仏事の回復」です。(ウ~ン、もう講題からして難しそう)

先生は、「仏事とは仏法事業のこと」そして「人生そのものが仏事であったんだという気づき」また「私の人生そのものが仏になる歩み」すなわち「仏事」だと言われました。

要約すれば、次のようなことだったと思います。

親鸞聖人は、1.死んだらどうなるかを言わず

      2.死にざまのよしあしを言わず

      3.死にぎわの来迎を言わず

      4.ただひとつ、自分にとって死とは、
        何かを見開くことが大事だと言われている

続けて先生は、次のようにお話しくださいました。

    仏法は、「間に合うものは、何ひとつ無いんだ」ということを知らされることだ。

    分別や観念にとらわれ、振り回される。「コレだけした」とか「アレがある」、「コレがある」といったことは、仏事(私が仏になる)には、何の役にも立たないものだ。

    恩徳讃に、「身を粉にしても報ずべし、ほねをくだきても謝すべし」とあるが、それほどにしても謝すことができないほどの恩徳を、この私は仏さまから受けている。

    私に働いてくださっている恩徳で生きているんだ。

    生きる意欲を賜ったんだ。だから精一杯、生きることが大切である。

    表現不足で申し訳ありません。私のレベルでは、この程度しかお伝えできません。(言い回しが難しい~)

    池田先生は、昨年も福井東別院の「暁の人生講座」にご出講されましたので、来年もきっと来福されると思われます。

    ですから、「この続き」と申しましょうか、私の説明不足な点は、来年の「暁の人生講座」で補ってくださいね。

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    主催者の発表によりますと、この「暁の人生講座」の最終日には、前日から福井東別院に宿泊された方が50人おられ、300人以上の参詣だったとのことです。

    そして、明日の26日~30日までの5日間、福井西別院においても暁天講座が開催されます。

    残念ですが、私どもは「夏休みラジオ体操とお勤め」と重なり、福井西別院でのご縁に遇えません。どうぞ、お時間の都合のつく方は、ぜひ、お参りくださいませ。