家庭法座 No.338 号
真実の み法は深し 海のごと
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平安時代の仏教は『保守的』で「皇族」や「貴族」などに限られ、そうした「特権階級」では「葬式」を行い、「お墓」を作るなどして「死者を弔う習慣」を持っていました。
対して、鎌倉時代の仏教が「日本の仏教史上において『革新的』だった」と言われる所以は、僧侶が「庶民の死を巡る苦しみ」に応え、「庶民の葬送を引き受けたこと」にあります。
今でこそ「葬式仏教」などと揶揄されますが、「葬式」は「鎌倉時代の庶民」が最も切実に求めた『仏教の姿』だったのです。
残念なことに、そのような経緯を経て「庶民層」へも広く浸透していった「仏教」ですが、現代においては「儀礼(読経)」ばかりが注目され、「葬儀や法事のために『寺』があり、『僧侶』がいる」といった感覚で捉えている人も少なくありません。
また、その「葬儀」や「法事」の際に読まれる『お経の意味』を始め、「大本」となる『仏教の教義』にしても「無頓着」で、何度か「お説教」や「講義」を聞いただけで、「解った」とか「これ以上聞く必要はない」と思ってしまう人も少なくないようです。
先ずもって、「仏法は聴聞に極まる」とも言われるように、「仏教の真髄」は聞いてすぐに会得できる境地ではありません。
仮に、「薄い紙一枚」にしても、「一から自分で製造技術を会得する」となると、途方もなく大変なことです。
また、一口に「紙」と言っても、無数の「原料」や「製造法」があり、「破れにくい」とか「水に強い」、「長く朽ちない」などと言った条件も考慮しなければなりません。
例えば、「和紙」に「墨」で書いた文書は、燃えない限り、水に濡れたとしても、必ず残ります。
三千年の歴史を持つ「漢字」ですが、「筆」や「墨」などの「筆記具」はもちろん、何よりも「漢字の形」を後世にとどめるのは「和紙の『長い歴史』と『伝統』に裏打ちされた確かな技術」によるものです。
そうした「理想の紙」を追求し、「完成の境地」に辿り着くまでには、どれほど多くの人が「苦心」と「工夫」を重ねてきたことでしょう。
こうして「紙一枚」を製造するに当たっても、「自然の恵み」や「人の技術」が必要であり、それが「仏教の真髄の会得」ともなれば、「至難中の至難」であることは、容易に想像のつくことです。
多忙な日常でありましょうが、時間を割いて「汲めども、尽きぬ深い味わい」を、繰り返し、繰り返し、お聴聞したいものであります。
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今月の行事案内
・お盆法要 7月14日(土曜日)午後7時より
・常例法座 7月20日(金曜日)午前&午後
どなたでもお誘い合わせお参りください
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