« 恒例の体操と勤行の会 | メイン | 家庭法座 No.255 号 »

2011年7月29日 (金)

おごりの気付き

今朝は、本町にある4区の子供たちが一堂に会し、「ラジオ体操とお勤めの会」に参加してくれました。

子供たちだけで約40人、そして、大人たちも約40人の参加です。

いつもの「拙寺のある中後区だけ」での「ラジオ体操とお勤めの会」と違って、本日は賑やかな境内となりました。

Img_2825

残念なことに、ラジオ体操が終わり「これから本堂でお勤め」となると、半数の大人の方は帰ってしまわれます。

それでも、「 taurus (牛)に牽かれて」ではありませんが、子供に牽かれて本堂へ入ってこられる方もあります。

何はともあれ、親と子が、祖父母と孫が、こうして本堂でお参りできることの幸せは、つくづく「当たり前ではない貴いこと」と思います。

ましてや「幼子に牽かれて仏法聴聞」など、「とてつもなく希有なことだ」と、改めて知らされた思いがします。

当に「ありがとう」としか表しようがありません。

この「ありがとう」という言葉の語源は「有る事難し(あることがたし)」で、そもそもは「当然ではない」、「当たり前ではない」という「感謝の意味」なんですよ。

30年ほど前にベストセラーとなった「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という若き医師、井村和清氏が、死の直前まで綴った「愛の手記(遺稿)」があります。

本ばかりでなく、映画化や、テレビドラマ化もされたので、ご存じの方も多いと思います。

本の表題の「飛鳥」とは「長女」の名前です。そして「まだ見ぬ子」とは「亡くなった当時に妻が妊娠していた子(次女)」のことです。

実は、この本の原題は「ありがとう、みなさん」というタイトルだったんですよ。

住職は、お勤めに参加された皆さんへ、この本の締めくくりの詩、「あたりまえ」から引用してご法話をしてくれました。

重い病気の代償として、井村医師は今まで「健康があたりまえ」と思っていたことが「あたりまえでなかったこと」に気がつかれたのです。

これまで「当然のこと」と思っていたことが、実はそうではなく「本当に有り難い希有なことだった」と、気がつかれたのですね。

誰にでも起こる当たり前のこと。それが「生、老、病、死」であり「四苦八苦」でありましたね。